竹内文書の知られざる真実 Part1 歴史の表舞台から消えた意味
▼はじめに
皆さん、こんにちは。今回もスペシャルゲストをお呼びしています。
竹内文書の知られざる真実ということで、本格的に竹内文書について関わっていらっしゃる、研究員のシドニーさんです。
よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
古文書についての話は、以前私の動画の中ではカタカムナについて取り上げたんですが、今回は竹内文書ということです。
竹内文書とは何か、ということであまり詳しく知らない方にも分かりやすいように、色々と紐解いていきたいと思います。
シドニーさんと私は結構昔からの知り合いで、クラブハウスを通じて色々とお話を伺っていました。なかなか面白い切り口で、独自の情報をお持ちの方だなと思っていました。
では初見の方もいらっしゃると思うんで、シドニーさんの方から簡単な自己紹介をお願いします。
はい。
私はシドニーミナトと申します。皆様よろしくお願いいたします。
皇祖皇太神宮の竹内文献研究員というものをやらせていただくようになったんですね。
その中で、YouTubeで「公認竹内文書研究会」というのをやってくださいという風に言われまして、そういうチャンネルをさせていただいているんですね。
もう1つ、「シドニーチャンネル」というものもやっておりまして、その二本立てでYouTubeをやっております。
文献の研究員ということですから、一般の人がピックアップしている内容だけではなくて、その周辺の知識もおそらくお持ちだと思うんですよね。その辺のところもすごく興味深い話だと思います。
では早速本題の方に入っていきますね。
まず、竹内文書とはどういうものかということを、初見の方でも分かりやすいように、少し説明をしていただいてよろしいですか。
▼竹内文書とは?
そうですね。
まず、竹内文書の一応決定版みたいなものがあって、皇祖皇太神宮から出ておりまして、「神代の万国史」という古文献なんです。いわゆる竹内文書と言われる場合はこれを指すんですね。
これは、竹内巨麿さんが昭和3年(1928年3月29日)に出されたものが基本になって、後から昭和45年に最初に出てきた本なんですけれども、それが一応竹内文書と呼ばれているものになります。
では、私たちの知っている歴史と何が違うかというと、例えば古事記や日本書紀というのが日本の正史とされているとするならば、竹内文書は一応アカデミズムからはもう偽書扱いされているのは間違いないことなんです。
けれども古史古伝の中の1つとして、神代文字で元々書かれていた書籍なんですね。中には何が書かれているかというと、超古代からのスメラミコトの歴史が連綿と記されているんですね。
古事記や日本書紀は、神武天皇からのものが結構詳しく(とは私は思わないんですけれども)書かれていて、それが元になって日本の歴史を形作っていることになっていますよね。
では竹内文書はというと・・・私たちは竹内文献と呼んでいるんですけれど、一応竹内文書で今回は通させていただきます。
竹内文書というのは、「それよりもっと前に歴史があったんですよ」ということになります。
例えば、神武天皇より手前に何かあったのかというと、不合朝という古史古伝でよく言われている73代のスメラミコトの歴史や、その手前にも上古25代の歴史があります。
その上古25代の歴史の神々というのが、古事記や日本書紀で見られる神様、例えばイザナギ、イザナミとか、アマテラス様とかという、よく聞く名前の神様が一代一代いるんですけれども、それがものすごく長い数で、1300世代ぐらいになってしまうんですかね。
そのくらい、ものすごく長い連綿とした歴史があって、そのさらに手前に天神7代という、皆様が知らない神様の名前がいたりするのが、竹内文書の大きなあらましみたいな感じでしょうかね。
そうすると、古事記や日本書紀よりも古い、遥か昔の歴史が刻まれているという話ですよね。
そして中には、実際に史実として日本史には出てこないような、神々の歴史みたいなものが記されている、ということですかね。
そうですね。それは多数含まれております。
わかりました。
ここまでのところで、竹内文書というのは神代文字、古史古伝として記されていたものを、竹内巨麿が昭和初期の頃に、今の現代風の文章に直されたんですね。
▼第21代雄略天皇の勅命により、武内宿禰の孫の平群真鳥が書き改めた
そうですね。
ウガヤ朝の第3代が制作した、阿比留文字の歴史巻物というものがあったんですけれども、第21代の雄略天皇が子孫が読めるようにと、全てを神代文字から漢字かなまじりに書き改めさせて秘蔵することを平群真鳥という人に命じたんですね。
そこで平群真鳥は漢字の書きを習得して、数十巻を5 年で書き写した、という風に言われているんですね。「そんなことが可能なのかな?」というくらい、ものすごい分量があるんですけれども。
質問です。
今の話の内容は昔の時代ですよね。
かな文字が出てきたのは平安時代でしょうから、時代考証的にどうなんだろうと思うんですが。
そうですね。
この辺りのことは、時代考証的にどうなの?ということはあるかもしれませんが、竹内文献の中には、それらのもとが結構残っているんですね。
でも時代考証的には、「それは間違っているでしょう」と言われるご指摘があっても、おかしくないかなと思います。
なるほど、さすが研究の方ですね。
真実一点張りではなくて、極めて冷静に見ておられますよね。
今までのところを一度まとめると、昭和の初期に出てきた巨麿さんは古代文字を直したのではなくて、その前から古代の文字を漢字に直した人がいる。その世代がある。ということでしょうか。
そうですね。
武内宿禰という、392歳くらいの非常に高齢で亡くなっている方がいたんですけれども、その3代目に平群真鳥という方がいたんですね。
大臣の方だったんですけれども、その人が先ほど言ったように、漢字かなまじり文に書き改めたんです。
武内宿禰というのは、ちょうど神宮皇后(第14代皇后)と同じ世代の方ですよね。
その時代というのは、日本史の中では失われた期間というか、記録が全然ないような時代なんですよね。
はい。
記録自体は多少あるとは思うんですが、日本史の欠史十代(第24代~第33代)辺りはないと言われていますよね。
それは今、現代において欠落しているだけであって、もちろん歴史は連綿と続いていく中の一コマとして当然あるわけなので、今言われたように、古代文字を漢字などに書き直したということは真実である可能性が十分にありますよね。
では、巨麿さんが昭和の初期に行った功績は何ですか?
▼平群真鳥以降、竹内文書は長い間地下に潜った
平群真鳥さんが作ったものを地下に潜らせるという目的が、まずあったんですね。
雄略天皇がそれを指示して、武烈天皇の時に、地下に完全に潜らせる策略を実際に行ったんです。
その後何が続いて行われたかというと・・・。
まず、平群真鳥が神主になったんですね。
武烈天皇に討たれた形になっているのが実際の歴史だと思うんですけれども、それは表向きの話で、お墓から逃げられるようにしてあって神主になった、という風に書かれております。
そして、3代ごとに竹内文書を書写しているんです。
今68代が現在の館長になるんですが、そこまで連綿と竹内文書というものは、その形で3代ごとに書き改められているんです。
というか、3 代ぐらいかかるということでしょうね。
そのぐらいものすごい分量があって、それを書き写してきたという歴史になっています。
そうすると巨麿さんの功績は、それを世の中に発表したということですか?
▼昭和に入って竹内巨麿が竹内文書を公表し、皇祖皇太神宮を再興する
そうなんですね。
地下に潜っていたものを、昭和3年に表に出して発表したというのが功績ですね。
それと、皇祖皇太神宮というものを再び起こしたというのが、もう1つの功績になっています。
なるほど。
皇祖皇太神宮というのが、竹内文書の1つの象徴となる学び舎といいますか、宮ということでしょうか。
竹内文書的に言うならば、皇祖皇太神宮というのは、大昔から存在していたスメラミコトの治める本当の中心地だったんですね。
それが色々な高天原に遷都されるような形で、王朝がたくさんあるわけなんですけれど・・・。
神武天皇まではあったんですがその後消えていますので、それを再興させたという形になりますでしょうか。
なかなか面白いですね。すごくロマンがある話だと思います。
今の話を聞いていてすごく納得したのが、地下に潜らせたという話ですね。
真実をそのまま表沙汰にすると、本当に色々とねじ曲げられてしまうのがもう明らかなんで、それを敢えて武烈天皇から成敗されたような形で一応歴史上消された上で、それを綿々と地下で守っていったということですよね。
はい、そうなんですね。
それを守ってきた神主さんがずっと続いていたんですが、現在は神主という言い方はもう廃止されて、館長という名前になっています。
歴代の神主の中には、見つかりそうになった時に拷問にかけられ、その出所を自分から口に出さないように、自害したりした人たちがたくさんいたんですね。
そのように役割として本当に苦しい中、連綿と伝えられ、守られてきたんです。
申し上げておきたいことがあるんですが、ネットなどですごく間違った情報が入っているんですね。
口伝という言い方をしているところもあるんですが、口伝えではないですよね。
一般の方が書き込んだりもできるので、間違いの情報はかなりあると思います。私も指摘したりしていたんですけれども、もう埒が明かないのでやめたんですよ。
竹内文書が根拠のない偽書扱いである、という風によく巷では言われているんですが、1つの大きな根拠としては、古文書なのに現代語風の文面になっているからなんですね。
でも今のお話を伺っていたら、もちろん古代文字から漢字などに改めて、途中平安時代などにかな文字が入ってきて・・・と時代に応じて、おそらく文面の形を変えていったのではないかと思うんです。
それはないかと思うんですよ。
一言一句変えてはいけないという遺言書があって、それを変えたら絶対死ぬぞ、みたいなことが書いてあるんですね。
だから変えていないはずなんです。
私は、それで竹内巨麿が出てきた時に、彼が世の中に発表しやすいような文面になったのではないか、と思ったんですが・・・どうでしょうか。
それもないと思いますね。
巨麿さんが何かを新しく書きかえたり、修正したりなどというのは一切認められてないんです。そこは、はっきりさせておいた方が良いところかなと思います。
そうなんですね。では私の推察は間違っていましたね。
私はてっきり巨麿さんが世の中に出す時に、文面を一般の人に分かりやすいように自分でアレンジしたのかなと思ったんです。だからそれは偽書だろう、という風に言っている人がいるのかなと思ったんですが、どうもそうではないみたいですね。
▼なぜ竹内巨麿は竹内文書を公表したのか
では別の質問です。
先ほどから巨麿さんの話ばかりしていますけど、巨麿さんは、何で一般に発表しようと思い立ったのですか。
今までは秘中之秘として地下に潜っていましたよね。何故それを発表しようとしたんでしょうか。
これは竹内文書の中に、ちょうど竹内巨麿さんの時に世に出されるだろう、みたいな予言があったんですね。
でも、竹内巨麿かどうかというのは予言した当時には分からなかったんです。
「この地図が膝か何かの痣になり、それが出てくる時にこれは世の中に出てくるだろう。」
みたいなことが書かれている文書がございまして、それにちょうど沿った形になっているんですね。
同じ痣を巨麿さんは持っていたという風に言われていて、それが一応根拠にはなっているんですね。
ということは、彼は当然その文書の内容を全部知っているわけだから、ここに書いている予言を成就させようと思って自分で実行したのかな、とも思いますが、どう思われますか?
竹内巨麿伝みたいなものがございまして、それを私が読んで一応理解している中から拾った部分としては・・・。
まず、幼少期に母親が暴漢みたいなものにあって、この人に襲われたらと危惧したと思うんですが、自害しているんですね。
それでずっと、その敵討ちみたいなことをやろう、と思って生きてきたわけなんですよ。
ある程度時が経って、その犯人が分かったんですけれども、敵討ちができる前に亡くなっていたことに気づいたんですね。
そこで巨麿さんは絶望するんですよ。
敵討ちができなかったので挫折したというか、その後にどうしようかと悩んでいた時期があったみたいなんです。
それで、もうやることもなくなった時に思い立ったのが、「世のため、人のためになるようなことをやろう」ということだったんですね。
それで、「皇祖皇太神宮を復興させて、竹内文書を発表しよう」とそこで決めた。
ということになっていたはずなんですね。
何となく分かるような気がするんですよね。
この世の中の矛盾みたいなものにすごく打ちひしがれて、実は真実はここにあるんだという旗印を立てたい、という思いがあったんでしょうね。それで皇祖皇太神宮の再興を図ったということなんですね。
でもタイミング的に昭和の初期ぐらいというのは、ちょうど日中戦争や太平戦争、大東亜戦争に繋がる時期なので、当時の天皇崇拝主義にうまく乗るような形で、歴史的に解釈する人も多分現れたでしょうね。
そうですよね。
そういうのもあったとは思います。
なぜそのタイミングだったのかというところで・・・。
予言に記されている痣の話が出てきましたけれども、それが本当に竹内巨麿という昭和初期の人物にスイッチオンになったんですね。
今まで脈々と世に潜っていたものが、なぜそのタイミングなのかという話なんですが、そこら辺をどう思われますか?
そうですね。
幼少期、多分明治の頃から実は竹内文献の書き写しをやっていたんですね。一応神主になることは分かっていたからなんでしょうけれども、遺言書と共に全部書き写しをやっていて、全部で4回ぐらい書き写しをやっているんです。
書写したりしているので、その内容を全部巨麿さんは読んではいるんですよね。遺言書などを含めてですので、その内容を知った上で、その部分に繋がる機会を得たのかなという風に私は思っております。
これはもう考察ですね。
▼文書の多くが空襲で焼けたり政府に没収された
あともう1つ。
昭和の時代にそれが発表されて、おそらく右翼側の軍の体制などから賞賛されることもあっただろうし、逆にいわゆる新興宗教的な立場だからと大本教などと同じで、弾圧するという流れも当時はおそらくあったと思うんですね。
その中で、東京大空襲などで随分貴重な資料が燃やされたという話を聞きましたけれども、その辺どうなんでしょうか?
実際そうなんですよ。
御神宝なども、ほぼ一度持っていかれたんですね。
そして大空襲で、それが収められていたところが焼けてしまったんです。
ヒヒイロカネというもので作った御神宝が3点あるんですけれども、その3点とも帰ってきたものは少し焦げがついて、色も変わっているんですが、一応残ってはいますみたいな状態になっていましたね。
文書については、ほぼ帰ってきませんでした。
私がもし仮に、竹内文書の大元を作ったクリエイターの立場、ものすごく古い時代の古代文字の作者だったとしますよね・・・。
それでその後、古事記、日本書紀などという日本を凌駕するする文献が出てきた時に、これがすごく蹴散らされてしまうというのが分かっているとしたら、当然地下に潜るというところまでは発想としてあるんですよ。
そして地下に潜って、でも潜ったままではなくて、その「潜る」の意味は、いつか世の中にそれを出していくタイミングがあるだろうということまで読み切って、そのタイミングを計っていたと思うんです。
それが実際、未来を見通せるようなすい眼を持った人物が書いたとしたら、何故昭和の初期なのかという話になってくると思うんです。
これも推測ですけれども・・・。
偽書扱いされても、かえってそれでいいと思うんです。大体真実というものは、知る人ぞ知るというところでフィルターがかかっているから守られる、というところがあるので、偽書扱いしてくれた方が、真実がそのまま担保されることも多々あるからなんですね。
でも今から80年ぐらい前ですか、我々が今生きている時代にこの竹内文書が一般に明らかにされたというのは、ありがたいことですよね。もしかしたらそこまで壮大な計画のもとに、色々と仕掛けを文章の中に入れたのかな、と思ったりもしました。
そうですね。それは日矛さんの言われる通り、そういう壮大なものがあった可能性が非常に高いですね。
遺言書にかなり詳細な部分が載っていまして、これは遺言書の部分ではないかもしれませんが・・・。
皇祖皇太神宮の系譜の巻より、アメノミナカヌシスメラミコトより上代、及び神代の神を省き、サノノミコト(神武天皇)までを書き写させて、大伴室屋、物部目、葛城円、巨勢男人、蘇我韓子の五名に、歴史を写させた。
みたいな、そういう歴史に一応なっております。
すみません。
今の内容が難しくて少し分かりにくかったのですが、簡潔に言うと、どういうことですか?
簡潔に言うと省くところは省いて、伝えるべきものだけを残して、先ほど言った五人の人たちに、これは写してもいいよと言われたものを渡したんですね。
それで古事記、日本書紀を作ったという流れなんです。
なるほど、面白いですね。
土台となるのが竹内文書であり、竹内文書の中から一部情報として伝えていいというものが古事記、日本書紀であるということですね。
はい、そうですね。
▼稗田阿礼や舎人親王は実行部隊に過ぎなかった
そうすると、例えば稗田阿礼とかですか?
そうですね。舎人親王とかですね。
稗田阿礼とか舎人親王というのは、多分実行部隊としての頭だったと思うんですけれど、この五名から指令を受けて、実行に移した人たちの名前なんでしょうね。
今の話はすごく腑に落ちる話で、よく高校や中学校の歴史の教科書では、「稗田阿礼が暗唱して生まれた」などと言っているんですけど、「じゃあ情報元はどこ?」という話になってくるんですよ。
だけど、これだけ詳しい古事記、日本書紀の内容を、1人の人物が口伝で暗唱して伝える、というのは少し無理がありすぎるんですよ。
むしろ何か土台となる文献がある、ということの方が自然なので、それが竹内文書であるという説は否定できないですよね。
そうですね。その可能性が高いですよね。
現代的な天皇の歴史とは、2684年くらいで結構短いですよね。せいぜい3000年未満じゃないですか。
「それは違いますよ」と言っているのが竹内文書で、そうなった時に初めて万世一系と言えるんですよね。
万世一系の「ばん」は万年の万ですから、それだけのものがないと、やはりおかしいんですよね。
随分話の筋が見えてきましたね。
我々が普通に習っている歴史の流れは、まずこの竹内文書が母体になって、そのエッセンスが古事記、日本書紀として出てくるから、古事記、日本書紀が決して竹内文書と対立するものではないですね。
そうですね。
おそらく当時の人々の思想や考え方には、古事記や日本書紀の状態で十分マッチングしていて、それがずっと続いていた。
だから本体の部分は地下に潜らせておいて、それをしかるべき時に出そうという風なタイミングがあった。
それが今から80年前ぐらいにスイッチオンになり、現れてきた。
つまりきっと我々はそれを理解して、その歴史を受け継ぐ知識や世界観、価値観などが十分育つ土壌ができている、という話ですよね。
多分そうだと思いますね。
はい、おっしゃる通りだと思います。
▼皇紀とは
面白いですね。
今回はここまでとして、次回は竹内文書に実際に書かれている内容についての考察、ということでまたご出演いただいてもいいですか。
是非よろしくお願いいたします。
面白かったです。
今日のお話をもう一回簡単にまとめますと・・・。
竹内文書というのが、実は偽書扱いされているということで、その理由はいくつもあるんですが・・・。けれども実はこれがもし本当だとしたら、ものすごく長い歴史があることになるんですよね。
先ほど皇紀2600年という言い方をされましたが、それは西暦で言ったら、今から何年前ぐらいですか?
例えば皇紀0年というのが、紀元前の660年なんですね。
なるほど、そういう意味ですね。分かりました。
つまり今現在が、大体皇紀2600年ということですね。
(注 令和6年⦅2024年⦆は、皇紀2684年にあたる)
はい、そうですね。
そうすると皇紀0年は、大体釈迦や孔子が生まれた時代に近いぐらいですね。
そうですね。そのぐらいになってくるんでしょうかね。
時代的には弥生時代が始まる少し前ぐらいなんですよ。
その時代が最初になるということなんですが、実はそれよりもずっと前の古い時代まで書かれているというのが、竹内文書という古史古伝の醍醐味なんですよね。
そこがすごくロマンを感じるところで、なおかつ本当になかったものとされるのを防ぐために、わざと地下に潜らせて、綿々と何代にもわたって書写を繰り返しながら伝えられていた。
それが今から80年前に、パンドラの箱を開けるみたいに世の中に広まって、中には焼け落ちた部分もあるけれども、多くの人が情報として知ることができるような状態になっている。
その意味が、おそらくあるんじゃないかなと思います。
▼神代の万国史
先ほどの神代の万国史ですが、非売品ですか?
売ってはいるんですけど、高いんですね。今だと4万7千円ぐらいするんですよ。
中には、神代文字が紹介されている部分もあります。
なかなか貴重な資料ですね。
読みたい方にとっては、これは研究資料としては第1次資料になると思います。
そうですね。
何が興味深いかというと、膨大な量の文書の中で、おそらくその時代において重要なポイントというのは、変わってくると思うんですよ。
我々が今生きている時代において、必要なポイントを読み解いて世に広めていく、ということはその文面だけでどれだけでもできそうですね。
そうですね。
これが例えば電話帳ぐらいの厚さだとするならば、天の巻、地の巻、人の巻というのが全部としてはあるんですが、まだ天の巻しか出ていないんですね。
天の巻は本当はどのくらいの分量があるのかというと、今出ている本が電話帳ぐらいのサイズだとしたら、広辞苑2冊分ぐらいあるらしいですね。
天の巻とは、神の時代ですよね。
そうですね。
漢字かなまじりで、そのくらいあるという話なんですよ。
そして竹内文書の天の巻、地の巻、人の巻というのが1つの分量だとするならば、他にも関係資料というのが20冊ぐらいあるんですよ。
それはまだ公開されていないものですね。
本当にすごいですね。
次回の予告になりますけど、中身の話でよく知られているのが、例えば五色人伝説などですね。
それから、キリストが実は日本に渡ってきたとか、色々一見するとオカルト、都市伝説と言われるような内容の元ネタが、ここに入っているようなものなんですよね。
そういうものがたくさんあるんですが、元ネタなので、ちゃんと吟味していけば、そこからすごく面白い発見がたくさんあると思うんですよね。
その辺の話を次回伺っていきたいと思います。
よろしくお願いします。