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【交通事故で体の41%に大火傷・手術33回/絶望から奇跡の復活】古市佳央さんに聞く

交通事故で体の41%に大火傷・手術33回 絶望から奇跡の復活

▼はじめに

日矛

皆さん、こんにちは。

今回も、またまたすごいゲストをお招きしています。
古市佳央さんです。

この方は、非常に稀有な体験をされていて、今は講演活動で多くの人にご自身の体験を通した色々なメッセージを伝えられています。

「世界一不幸な男が、世界一幸せな男になるまでの物語」という書籍を、最近出されました。

それでは古市さん、よろしくお願いします。

古市

こんにちは。よろしくお願いいたします。

日矛

私の対談の中では、異色中の異色というポジションになると思うんですけれども・・・。

考えてみたら世の中というのは、いろんなことが起きる可能性があって、その中で古市さんが体験されたことというのは、皆さんにとって、とても生きるヒントになるのではないか、と思って今回お招きしました。

よろしくお願いします。

古市

はい、よろしくお願いいたします。

ありがとうございます。

日矛

古市さんのことを、私の方から簡単にご説明します。

若い時にバイク事故を起こされて、その時に瀕死の大火傷をされたんです。そこから、本当に生きるのが辛いような状態が続いて、もう言葉では言い表すことができないような体験をしてこられました。

そこから、物の見方などが徐々に変わっていった、という体験をされたそうです。

そして、「多くの人にご自身の体験を伝えていきたい」ということで、講演会の活動もされています。

今日はなるべく私の方は聞き手に回って、古市さんのお話を中心に伺っていきたいと思います。

▼バイク事故での大火傷 ー> 入院生活

日矛

まずはじめに、バイク事故は、16歳の時だったんですよね。

古市

はい、16歳です。

日矛

その時の経緯から、お話を伺ってよろしいでしょうか。

古市

はい。

ちょうど1988年4月2日が、僕にとっては忘れられない交通事故を起こした日なんです。その日に交通事故を起こして、バイクが爆発炎上したんですね。

火だるまになって病院に運ばれたんですけれども、そこからトータル3年間という、長い期間入院生活を送ることになりました。

病院の中では皮膚移植手術を33回やりまして、見た目が全く変わってしまうという経験を、16歳でしたわけですね。

自分の変わり果てた姿を受け入れることができずに、死にたいなと思う日々が続きました。

「僕は、もう一生幸せになれない」と確信したのが、16歳だったんですね。

それで死にたかったんですけれども、死ねない理由がありまして・・・。

僕の母親が毎日見舞いに来て、僕のそばにずっといてくれたんですよね。

「うちの母さんを悲しませたくないな。」という思いがあって、死ねないという日々が続くわけですね。

そこから入院生活の中で、看護さんや患者さんや、いろんな人との触れ合いで、生きる気力を取り戻していくということになりました。

病院の中で、1つ僕に強烈に教えてくれたのは・・・。

たくさんの亡くなっていく人が、「生きるとは何か」、「生きているということは何か」、を僕に教えてくれました。

何を教えてくれたかと言うと・・・。

人は、こうして毎日のように亡くなっていく。肉体が終わっていく。その時に、家族の方が残されるわけですよ。

その家族が昼間は笑っているんですが、夜はもう本当に大泣きしているような、そんな風に悲しむシーンを何度も見てきたんですよね。

「自分が死んだら、家族はこんなに悲しむんだ」と思った時に、やっぱり死ねないと思ったし、「人が生きているということは、すごいことなんだな」と、入院中に気づいていくわけですよね。

そこがやはり入院中の、大きな気づきでした。

そうは言っても、全身に火傷を負うと痛みと苦しみがすごくて・・・。そんな中、何か楽しみを見つけたいなと思ったんですね。

そんな中、「僕はもう、どうせこの苦しい中にいるんだから、楽しもう」と思って、今度は明るく振る舞っていくようになります。

そこで看護さんやドクター、病室の患者さんや病室をこえた病棟中の患者さんと、友だちになっていきました。

そこでトータル3年間入院して、退院をして、23歳で社会に復帰しました。

23歳で退院して、29歳の時に講演をしないかと言われまして、僕の体験談を語るというところから講演家の道に入っていきました。

そうして今の人生に至っています。

日矛

16歳から23歳は、人生で一番輝いている時期ですよね。その多感な人間形成をしている時期に、ずっと病室で暮らしておられたんですね。

しかも、いつ自分が復帰できるかという見通しも何も立たない状態で、そういう過酷な生活を送っておられたんですよね。

そして結果的にですが、その経験そのものが、ご家族の支えがあることに改めて気づくことに繋がり、さらに後の古市さんの活動に生かされていった、ということですね。

古市

本当にそうですね。

家族の有難さというのは・・・。

16歳までは本当にまだ若くて、家族はいて当たり前の存在だという感じでした。

でも、入院してから本当に家族が誰よりも心配してくれて、誰よりも寄り添ってくれて、その愛に気づくという感じでしたね。

日矛

この本を読ませていただいたんですが、体の41%が火傷というのは、本当に瀕死の状態で、致死率もかなり高い状態ですよね。

そこから健常なご自身の皮膚の移植を何回も重ねておられ、想像絶するような苦しみがおそらくあったと思うんですよね。

そこから、社会復帰をされたんですね。

▼社会復帰 差別や偏見を乗り越えていく

古市

そうですね。

33回の手術をしまして、体中にとにかく傷がない時がない、という状態がずっと続きました。

そうしてやっと退院できる状態にまではなったんですが、もちろんもう消えない傷跡を残しながら、僕は社会に出ましたんで・・・。

今度は、社会の差別や偏見の眼差しとか、そういったものに向き合っていく、また辛い日々もあったんです。

けれども、やはりそこの中でも僕は「明るくいこう」という気持ちがあったので、明るくしていたらまた仲間や友達ができていく、ということを繰り返しました。

講演家になるまでは、僕は起業をして自分で車屋さんの仕事をしていました。そこもガムシャラで仕事をしていたんですけれども・・・。

2000年、今から24年前に、講演をしないかという風に言われたんです。

かづきれいこさんという人に言われたんですけれども、僕は最初お断りをしました。「僕のような人間が、人の前で話すのは無理です」と。

けれどもかづきさんが、「あなたの話は多くの人に勇気を与えるから、話してみなさい。さらけ出してみなさい。」

みたいな、そんな感じで言われまして、最初は半ば厭々お話をさせていただいたんです。

でも、その一歩が僕の人生を大きく変えていく、という経験になっていきますね。

日矛

そうですね。今社会復帰をされて、偏見の目で見られ辛い思いをされた、というところの話もさらっと言われましたけれども、なかなか辛い体験をされたんじゃないかとお察しします。

古市

そうですね。

子どもって結構ストレートに、正直にきますから・・・。

「あのお兄ちゃん、変だね。」

「あのお兄ちゃん、顔どうしたの。」

子どもがそう言うと、皆さんが注目してすごく嫌だったり、電車の中でヒソヒソ話をされたりとか、そういうことが本当にきつかったですよね。

「こんな風にして、生きていかなきゃいけないのか」というところが、もう耐えがたかったんですけれども、でも死ぬこともできないし、「どうやって生きていけばいいんだろう」と、僕は本当に悩みました。

けれどもやはり持ち前の明るさとか、そういったところでがむしゃらに、とにかく人に話し続けました。

古市

・ 自分というものを理解してもらうためには、自分が話す必要がある

・ 同じ人間なんだよ、ということを分かってもらう必要がある

・ それには話さなきゃいけない


そういったことを、一生懸命やっていたような気がします。

日矛

最初に大火傷をされて、それからやっと立ち直って、今度は人の前に出ることによる非常に大きな精神的ダメージも越えていかなければならなかったんですね。

古市さんがそれを乗り越えられたのは、持って生まれた魂の輝きというか、そうした明るさであるといったところが大きいと思います。

もちろんご家族とか、周りの人たちの支え合ってのことだと思うんですが、古市さんご自身によるところが大きいと思うんです。

そして、やはり同じような悩みを抱えられている方に対して、非常に刺さるお話だと思いました。

▼講演家として走り続けた2年間

古市

ありがとうございます。

僕自身はやはり、人と繋がっていくというのは入院の時からもそうですし、社会に出てからもそうで、人に恵まれていると言ったら恵まれているんですけれども・・・。

切り開いてきたといえば切り開いてきました。

人と繋がるのには、やはり明るさだったり人を思う気持ちだったり、そういったものが必要だと、自分の体験談の中で培われていきました。

結果として、かづきれいこさんという女性と出会って講演を始めろことで、僕の人生が大きく変わっていくんですね。

何が変わったかと言うと・・・。

自分は最初、体験談を話していたんですね。当時、僕はまだ幸せではなかったんです。世界一不幸だとは思っていないけれども、まだ幸せではなかったんです。

どうしていこうかという時に講演を始めたのですが、僕の体験談をお話ししたら、たくさんの方が僕に感想をくれたんですね。

そしてその感想に、僕は心を動かされていく体験をします。

「古市さん、そのままで大丈夫だよ。」

「古市さん、本当に話してくれてありがとう。」

そんな風に言われたり、抱きしめてくれたり・・・。たくさんの方に「ありがとう」と言われる体験をしていくんですね。

僕なんかが自分の体験を話して、まず「ありがとう」と言われるとは思ってなかったし、ましてや「そのままで大丈夫だよ」と、抱きしめてくれる人がいるとは思ってなかったんですね。

僕の中では、「このままではダメだ」と思っていたんです。

「このままじゃダメだから、僕は例えば経済とか、何か大きなことを成し遂げなければ、自分の価値はもうない。」と思っていたんです。

だから外観を含めて「そのままでいいよ」と言われた時に、もう涙が出るぐらい嬉しかったんですよね。このままでいいと、認めてくれる人がいるんだと。

そして講演をしていくうちに、そういう人たちがどんどん増えていったんですよね。

それで、いつしか僕自身が、本当に講演をすることが好きになって、そして多くの方にありのままを認めてもらうという経験を積み重ねていくんです。

ここが、僕の人生が変わっていく体験になっていったんですね。

そして講演家として、どんどん生きていくんですけれども、2年間本当に走り続けました。

全国いろんな所に行って、子供たちにもお話ししましたし、いろんな大人の方にも話をしました。

▼もしもタイムマシンがあったら?

古市

そんな中、ある小学校に行った時に質問されたんですね。

「古市さん、タイムマシンがあったら、事故の前に戻りたいですか?」と。

僕は、この質問は1番簡単な答えだったはずなんです。

当然、過去に戻れるんだったら事故の前に戻って、あの事故を回避して、健康である人生を送りたいと。

それこそが幸せだと思っていましたので、「そんな野暮な質問はないな」と一瞬思ったんですよ。

でも、「戻りたいのかな?」と、自分に問いかけてみたんですね。

古市


そうしたら、この講演をしてきた2年間を思い出して、もういろんな方のお顔が頭によぎったんですよね。

「僕はたくさんの人に笑顔もらって、優しさもらって、ありのまを認めてもらって・・・こういう素敵な思い出も全部捨ててしまうことになる。それでも過去に戻りたいのか?」

と自分に聞いてみた時に

「戻りたくない」と思ったんですね。

「ああ、今幸せだわ」と思ったんですよ。

それで、僕は子供たちに

「今、僕は幸せで、本当に生きててよかった。だからタイムマシーンがあっても戻りません。」

と答えたんですね。

古市


僕が子どもの質問にこう答えた時に、何かが大きく変わったんですね。本当に講演を始めて2年経ったくらいのころだったんですよ。

「人は、2年でここまで変わるんだ」という感覚を覚えています。

僕は先ほど言いましたが、事故をした日。1988年4月2日という日は、僕にとって忘れられない人生最悪の日でした。

でも僕はこの日が自分の記念日だ、と思うようになったんですね。

この事故で僕は大切なことを教えてもらって、こんなに幸せになれたと思った時に、この日をお祝いしようと思って、毎年4月2日をお祝いするようになったんです。セカンドバースデーとして。

毎年繰り返して、仲間を集めて、この日にお祝いをしていたんですね。

この4月2日にこだわって生きてきて、そして、この4月2日の最悪の日が、実は結婚記念日にもなり、今はもう人生最良の日になっていったという経緯があります。

日矛

そうだったんですね。

私はいつも、こうしてゲストの方をお招きして、色々とその方のことを分析しつつ、お話の中で合いの手を入れていくんですけれども、言葉がもう出てこないんですよね。

ご自身の辛い体験を乗り越えられて、そのお気持ちを多くの方に伝えていかれているので、一人でも多くの人に古市さんの生き様を知っていただきたい、という風にも思いまして・・・。

古市

僕は結構、特殊な体験だと思うんですよね。こういう火だるまになる経験をする人もいないですし。

なかなかこういう状況で、本当に幸せな人生を送っていく人というのが、少ないでしょうね。

どうしても途中で人生を諦めてしまったり、世間の冷たさに触れて諦めてしまったり・・・。

そうした人がたくさんいる中で、僕がもし世に出ていくことで、これだけ人生を楽しんで生きることで、誰かの希望になったらいいなと思います。

そしてもっともっとみんな幸せな人生を選べるし、送ることができるのに、その選択をしない方たちが大半なんだと思うんです。

もちろん体に障害がなくても、自分に自信がなかったり、何か今のこの社会は生きづらさがある、と思うんですね。日本人は自分で命を断たれる方も多いですし。

もっと人生を楽しく生きられるのに。

こうやって生きたら、幸せな人生を送れるよと、僕自身が人にもっと分かりやすく伝えられたらいいな、と思って今回本を出しました。

僕の講演を聞く方というのは・・・。
あまりこういう言い方をしたくないんですけれども、障害者か健常者かどちらかと言ったら、ほとんどが健常者の方なんですね。

だけど皆さん何か悩んでおられたり、生きづらさを感じておられていて、そこをもっと生きやすくしてあげたいな、みんな幸せに生きようよ、そんな法則を皆さんに伝えられたらいいな、という思いで講演会に臨んでいます。

日矛

ありがとうございます。

先ほどからの繰り返しになりますが、古市さんが語っておられる時に、普段なら自分の中でまとめの思考を組み立てて、合いの手を入れていくんですけど、もう聞き入ってしまって自分の言葉が出てこないんですよ。

申し訳ないんですが、今いち視聴者として聞いています。

健常者の方がむしろ聞かれている、と今おっしゃいましたが、健常者であっても人生にいろんなことが起きることを想像して、今の自分が生かされていることを実感する、ということですごく意味があることだと思いました。

▼人が幸せに生きるためには

古市

そうですね。

僕は今、一般の方が来てくれる講演会もありますし、学校に行ったり、色々なところに行ったりするんですけども・・・。

多分、いちばん聞いて欲しい対象者というのは、実はそこにはいないんですよ。多分、出てくることができないし・・・。

だから、YouTubeなどで家の中でも見られるようにして、いろんなところにもっともっと届けていかないと、本当に必要としているところには届かないかもしれない。

そういった意味で、本というのも1つ届くチャンスかもしれないし、また講演を聞いた人が誰かに伝えてくれるかもしれませんし、その人が誰かを幸せにする存在になっていただきたいな、という風に思うんですね。

僕の話は本当にシンプルで、誰もが分かる、誰もができることなんです。僕自身もそれしかできない人間なので、それをただ伝えているだけなんですよ。

とにかく人が幸せに生きるためには、良好な人間関係を作らなければいけない。

その良好な人間関係を作れば、要は幸せになれるとするならば、それじゃあ良好な人間関係の作り方さえ分かれば、人は幸せな人生を送っていけるし、大体の悩みが解決していくんですよね。

親子とか夫婦とか職場とか、この社会は大体人間関係さえ良好であれば、人は幸せに生きていけるんです。

もちろん当然お金なども必要ですけども、そのお金というものも良好な人間関係から生み出されていくことになっていくんですね。

だからそこがやはり、僕のいちばん伝えたいテーマなのかな、という風に思っています。

古市

では、良好な人間関係はどうやって作るのかと言ったら、もう簡単なんですね。

3つだけを伝えているんですけれども、まずは


「笑顔で接しよう」

「人に挨拶しよう」ということですね。

だから「笑顔で挨拶」はもう最強で、人と繋がるツールで良好な人間関係を作るための最初のステップなんですね。

そして

「仲間、人を応援しよう」

自分の得になるかな、損になるかな、ではなく、とにかく自分にできる応援をしていくことで、その応援したことが巡り巡って自分に帰ってきて、応援される人になっていくんですね。

やはり幸せな人というのは、応援される人でなくてはいけないというのもあるので、

「笑顔、挨拶、応援」

この3つを子供たちにも、若者にも伝えたくて、一生懸命やっています。

ここがもしできなければ、本当に豊かな人生、良好な人間関係を作れないので。

何か違うもの、物質的なものを得たとしても、おそらく最高に幸せだな、という人生は送れないと思っているので、そこが強調して伝えている部分です。

日矛

ありがとうございます。

1つ1つの言葉にすごく重みがあって、私もいち視聴者として色々とお話を聞いて、すごく心に刺さりました。

古市さんの生き方、古市さんだからこそ話せる命の大切さが伝わり、すごく心に響きました。

私のチャンネルでは、すごく異色な取り合わせだという風にも思うんですけど、広い意味でこれも生き方のヒントを伝えるという大きなテーマになっていると思うんです。

今回は本当にお越しいただいて、ありがとうございました。

古市

こちらこそ貴重な機会をいただきまして、ありがとうございます。

一人でも二人でも、これをきっかけに少し生き方が変わる方とか、何か行動が変わる方がいてくれたら、本当に嬉しいなと思います。

日矛

機会がありましたら、またよろしくお願いします。

古市

はい、もうぜひよろしくお願いします。

日矛

どうもありがとうございました。

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